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武田信玄が造った? 多摩川(昭島市拝島町)の霞堤(かすみてい)

信玄堤 アウトドア
信玄堤

昭島市拝島町五丁目近くの多摩川堤防には、なぜか堤防が途中で途切れて2重になっているところがあります。これは武田信玄が考案したとされる「信玄堤」の名残のようです。

拝島の霞堤

拝島の霞堤(かすみてい)は、地元では「食い違い」と呼ばれています。霞堤の歴史は古く、戦国時代の武田信玄が考案したと言われています。 名前の由来は、堤防が折れ重なり、霞がたなびくように見える様子からこう呼ばれています。

霞堤とは、堤防のある区間に開口部を設け、上流側の堤防と下流側の堤防が、二重になるようにした不連続な堤防のことです。洪水時には開口部から水が逆流して堤内地に湛水し、下流に流れる洪水の流量を減少さます。洪水が終わると、堤内地に湛水した水を排水します。急流河川の治水方策としては、非常に合理的な機能と言われています。

信玄堤とは山梨県甲斐市にある堤防で、洪水が多かった釜無川と御勅使川の合流地点に武田信玄が造りました。これが後に信玄堤と言われるようになった築堤技術で、その斬新な工法は各地に広まりました。信玄堤は堤防が二重になっていて、完全には閉じていません。そのため、増水時には川の水が堤防の外側へ流れ出ます。もし完全に閉じた堤防を造ってしまうと、増水時の水圧で堤防のどこかが決壊してしまいます。決壊した場所が城下町などの人口密集地であれば、被害が甚大になってしまいます。信玄堤は人口が少ない場所に造られ、被害を抑える効果があります。また、川の流れと逆流させることで、水流の勢いを抑制する効果もあります。

信玄堤

拝島の信玄堤がいつどのようにして造られたのかは分かっていません。

永禄12年(1569年)、北条氏照が守る滝山城(八王子市)を攻めるために武田信玄が拝島大師に本陣を構えましたので、このときに造られたのかもしれません。

江戸時代の古地図には、この付近に信玄堤が数か所あったようですが、現在残っているのは1か所だけとなってしまいました。

明治40年8月に関東・東海地方へ2つの台風が来て、利根川水系をはじめ多くの河川で大水害を発生させました。多摩川では近世末期の安政6年(1859年)水害を上回り、甚大な被害を受けました。このとき、拝島村字石原で三十間余(約60m)にわたって堤防が決壊した記録が残っています。

現在の信玄堤は、休日ともなるとランニングやサイクリングを楽しむ大勢の方たちが行き交います。

アクセス

拝島の霞堤へ行くには、最寄駅である拝島駅から徒歩で26分(2.1km)かかります。昭島市のコミュニティバス「Aバス」を利用するのであれば、西ルートの「拝島郵便局」が最寄りのバス停になります。

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参考文献

昭島市 (2020) Eコース(多摩川自然散策コース)
国土交通省国土技術政策総合研究所 (2023) 霞堤(かすみてい)
国土交通省 (2007) 河川整備基本方針 > 多摩川水系

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