大日堂は昭島市拝島町に鎮座する天台宗のお寺です。
大日堂の概要
大日堂の概要は、次のとおりです。
名称 | 普明寺大日堂 |
山号 | 拝島山 |
本尊 | 大日如来 |
宗派 | 天台宗 |
創建 | 天暦6年(952年) |
住所 | 昭島市拝島町1丁目10-14 |
最寄駅 | JR拝島駅 |
バス停 | 拝島大師(立川バス) |
サイト | http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/fumyoji/ |
大日堂には仁王門があり、口を開いている阿形像と、口を結んでいる吽形像が立っています。阿形像と吽形像は鎌倉時代に作られたもので、東京都の有形文化財になっています。
江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」には、大日堂が次のように記されています。
宿の東端にあり、北の方へ入ること二十間許にして仁王門あり、夫より石階二十級を登りて南向八間四面の堂なり、向拜に大日堂の三大字を扁す、三井親和が篆書なり、堂内の宮殿二間に二間半、本尊大日、左右は彌陀・釋迦、共に木の坐像三軀を安す、大日は長さ一丈二尺、恵心の作なりと、この胎内は秘佛とする處の大日一軀を藏せり、木の坐像長二寸八分にて、行基の作なるよし、左右の二像は共に長一丈許、その作知れず、天正中堂領十石の御朱印を賜はれり、その宛名淨土寺とあれど、今此寺號なし、殊に鐘銘にも拜嶋山浄土寺觀音院と見えたれば、時の別當たることは論なし、ことさら往吉一山大坊ありしと云へば、此寺故ありて廢寺せしなるべし、今現在する處は、普明寺・本覺院・圓福寺・知滿寺の四ヶ寺にて、この餘瀧泉寺・蓮住院・密乘坊・明王院は廢寺にて、以上八ヶ寺なり、普明寺は今の別當たり
三井親書(みついしんな)とは江戸時代中期の書家・篆刻家です。
「新編武蔵風土記稿」では左右の釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像について作者不明とされていますが、後に像内の墨書銘から元禄5年(1692年)の大仏師大前兵部により作られたことが判明しました。
出典:『大日本地誌大系 (12) 新編武蔵風土記稿 第六巻』雄山閣
- 952年天暦6年多摩川で大日如来像が発見される。
- 1573年天正元年大日堂の別当寺として普明寺が創建される。
- 1573-92年天正年間滝山城主北条氏照の重臣石川土佐守が娘の眼病平癒を祈願し、治癒したことから堂宇を再興する。
- 1591年天正19年徳川幕府から朱印地10石を下賜される。
- 1732年享保17年大日堂の位置が石段上の現在地に移される。
- 2004年平成16年平成の大修理により大日堂・仁王門・薬師堂が江戸期の形状に整備される。
仁王門
仁王門内には鎌倉時代作の金剛力士立像があり、都指定文化財になっています。
「新編武蔵風土記稿」には、仁王門が次のように記されています。
南向二間半に四間、表の方左輔右弼長置八尺許、鎌倉佛師運慶の作なりと云、密嚴浮土寺の額時を扁す、筆者詳ならず
薬師堂
大日堂の東隣に薬師堂があります。
「新編武蔵風土記稿」には藥師堂について次のように記されています。
除地、免田五段、大日堂に並びて東の方にあり、四間に三間南向なり、藥師は木の坐像にて長八寸五分、これを山王の本地佛とす
拝島の由来
昭島市は昭和町と拝島村が合併して誕生した市です。昭和町の「昭」と拝島村の「島」を一時ずつ取った合成地名です。昭和町は比較的新しい地名ですが、拝島村の「拝島」という名前には古い由来があります。
天暦6年(952年)、日原村の日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が洪水で多摩川に流されてしまいました。大日如来像は玉川花井の島(多摩川の中州)に流れ着き、村人たちがお堂を建てて像を拝むようになったことが拝島という名前の由来と言い伝えられています。
このお堂は浄土寺と呼ばれ、現在の大日堂とは違う場所にありました。どこにあったのかは現在でも不明です。その後、滝山城が築かれたときに、その鬼門除けとして石川土佐守が現在の場所に移したのが大日堂です。
江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」には、拜島村の由来について次のように記されています。
土人の話には、こゝより十一里餘、多摩川の上流のほとりなる日原村より、徍吉大日の像流れきたり、東の方大神村の川生涯に漂ひ着て、夜々に光明をはなちて赫熠たりしかば、里民等これを禮拜し、當村に迎へて安置しけるより名くと云、是浮たる說なり、其佛像のあがれるところを浄土寺という天台の古刹あつて此大日の像を安しありけるが、瀧山城元八王子へ移りし微し、遂に廢寺となりし、大日の像と密嚴土寺の額を拜島村に譲りしと云、されば今もこの大日のころに就ては、大神村にて與り聞かざることなしと、此兩說いづれを是とせんや定かならず、大神村の條合せみるべし、拜島の文字或は蠅島とも書きてへたり、所因詳ならず
武田信玄と北条氏照の戦場に
大日堂は天暦6年(952年)に創建されました。滝山城を築城する際に、鬼門除けとするために現在の地へ移されました。
永禄12年(1569)に北条氏が支配する関東へ侵攻した武田信玄は、小田原城へ向かう途中で滝山城を攻める際に大日堂に本陣を置きました。
滝山城を守るための大日堂が敵の本陣となってしまいましたが、大日堂のご加護のお陰か、城主の北条氏照は武田軍の撃退に成功します。ただし、落城寸前まで攻め込まれたので、滝山城を破棄して八王子城を築城する原因となりました。
昭島市指定有形文化財
大日堂および大日堂仁王門は昭島市指定有形文化財に指定されています。他にも昭島市指定有形文化財には次のものがあります。
- 大日堂
- 大日堂仁王門
- 紅林家文書四通
- 不老軒宇多々作「月廼野露草雙紙」稿本全六冊
- 龍津寺本堂天井板絵五五面及び杉戸絵一六面
- 縄文時代初頭の丸底深鉢型土器(上川原遺跡出土)
- 経塚下遺跡出土遺物一括
- 日吉神社本殿彫刻並びに拝殿 格天井花鳥画七〇面・板壁絵二面及び幣殿杉戸絵四面
- 大神古墳出土遺物一括(五点)
- 中神・熊野神社本殿及び拝殿
- 山ノ神遺跡出土月待供養結衆板碑
- 中村家旧蔵文書一括
拝島公園
大日堂の参道前には拝島公園があります。おねいの井戸や千歳の藤が有名です。
拝島公園について詳しくは、次の記事をご覧ください。
地図と交通アクセス
大日堂へ行くには、JR拝島駅から徒歩24分(1.9km)かかります。
近くに立川バスのバス停「拝島大師」があります。参道入口の前に着くので、近くて分かりやすく、おすすめの交通手段です。
少し離れていますが、昭島市のコミュニティバス「Aバス」の次のバス停も利用できます。
- 拝島会館前
- 拝島会館東
- 神明神社
- 栗の沢
距離的には栗の沢が近いですが、バスの本数が少ないうえ、交通量の多い国道16号(新奥多摩街道)を渡らなければいけません。参道とは逆の裏手から入ることになり、道順も分かりにくいです。
土地勘が無い場合、この中では一番遠いですが、拝島会館前で降りることをおすすめします。奥多摩街道沿いをまっすぐ東に行けば参道の入口があるので、分かりやすい道順になります。
参考文献
昭島市 (2022) 指定文化財
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